閃光のハサウェイおもろい!!!
filmarks にも書いたんですが、あまりにも長文が想定されてないフォーマットだったので以下コピペです。
めっっちゃいい作品でした。大きく感じたのは次の三点。
・各キャラのポジションがうまい。特に、ハサウェイ、ギネス、ギギが清濁併せ持つ形で描かれていて、魅力的なんだけど完璧というわけでもなくて三人のパワーバランスが釣り合ってると思う。
・情報の提示の仕方がうまくて、各シーンを意図通りに視聴者に見せる能力をヒシヒシ感じました。これがすごい感動した。
・モビルスーツがヒロイックではなく、むしろ怪獣的というのは前評判聞いていた通りで非常に効果的でした。これは音関係の演出の力も大きいと思う。
以下、印象に残ったことを書きます。
まず、イントロ。針の音が左右にパンを振って、しかも左右ばらばらに始まって、画面中央に集まる形で映画が始まります。これは劇場の音響だったから効果的に感じられた部分もあって、劇場で見て良かったなと思いました。
これはラストがギギがハサウェイの買っていたお土産の時計を直して針の音の中作品が終わったことと、スペースシャトルハウンゼンでのゴタゴタが終わってOPというところでかかる曲にリズム隊の役割として、時計の針の音が使われていたことからもかなり意図的な演出だと思います。
自分ははじめ、テロの象徴=時限爆弾として考えていたんですが、閃光のハサウェイ全体のラストを考えると、タイムリミットという意図であったり、市井の人々の時間がマフティー動乱というものによって一つに集められるという意図もあるのかもしれません。
自分は小説は読んでいないので、この辺は今後の2作見てかなという気もします。
続いて、スペースシャトルのシーンこれはかなり効果的に各キャラクターの特徴を序盤で掴ませる働きがあると思います。シャーロックホームズ顔負けの頭の良さと相手の心情はあまり考慮できないギギという少女、自分は大人であるという自負と立場、能力を見せるケネス、うわべでは普通の青年、親が有名人なだけの普通の人間に見せたいハサウェイ。という人物紹介について完璧なOPだったと思います。
特に、ハサウェイ⇔ケネスの対立軸として、自分の偽物が表れたこととギギに触発されてテロを鎮圧しまう(できてしまう)ハサウェイの若さ(=瞬発性)とケネスのキャビンアテンダントとの会話で自身を大人(=老獪さはあるが周りからの責務も重い)であると自認し、周りからも責任を負わされているあたりがかなり鑑賞した印象として大きく出ている部分でした。
ここで個人的に重要だなと感じたのがハサウェイの若さがあくまで未熟さではないという部分はですね。この後の展開でハサウェイが自身のテロ行為に正当性がないこと自体は認めていることで、ハサウェイがヒロイックなテロリズムに傾倒してるわけではなく、苦悩しながらも行動できてしまうこととしてテロを行っていることが感じられて、ハサウェイというキャラの魅力を感じさせてくれました。ここが崩れると、ハサウェイ、ギギ、ケネスというキャラの関係がケネス有利に運びすぎるところなんですが、若さ⇔大人軸が単なる未熟と成熟でないのが効いてるなと感じて良かったです。未熟という観点だとむしろ正当なロボット物だったら主人公ポジのレーンが担ってるんですよね。この辺のキャラ関係がほんと上手いと思う。
また、本編には全く関係ないんですが、ハウンゼンでの提供ドリンクが飲み口だけ空いて水分が外に出ない構造になっていたり、トイレの手洗いが手を入れて、外に水分がでないようになっている構造なのが、SF世界での日常が感じられて個人的にツボでした。こういうの大好き。
あとは、宇宙歴100年であることをテロップで流していた部分を銀河万丈さんのナレーションじゃないんだ、とか、ギギが「やっちゃえよ。そんな偽物なんか!」と訴えるシーンがニュータイプの感応のように見えたのですがエレクサトーン使わないんだとも思いました。それぞれ、銀河さんの体調とかギギはニュータイプともどっちともとれるようにという意図があったりかもしれませんが。あと、安直にファンサービスしない硬派さみたいなものを感じました。
ハウンゼンのシーンでは、視点を示している激しいカットと普通のシーンがシームレスにあったりして映像的にも面白かったです。そのシーンで何を見ているかをちゃんと見れたら面白かったかもしれませんが、自分はそこまで追えませんでした。
次に、ホテルのシーン。ここのハサウェイとギギの最初の会話シーンでハサウェイがギギに対して、言葉で人を殺すことだってできるんだよ(意訳)みたいなことを言うシーンで割とリアクションはギギがとっているもののカメラはハサウェイを向いているシーンがあって、自分にはちょっと意図がわかりませんでした。あと、カメラのフォーカスがギギからギギが飲んでいたジュースに向くシーンも印象には残ったものの意図があまりわからず、この辺分かる頭があったら楽しそう~という気持ちでした。この辺もう一度見返したい。
街中に出るにあたって、シティポップっぽい曲(でも古臭さはない, 曲名は多分G1×2)がかかるわけですが、この辺は逆シャオジサン世代へのサービスかなと思いました。
その後のスイートルームに移動してからの会話シーンが個人的にはかなり印象に残っています。
内容はハサウェイとギギがハサウェイ=マフティーでしょ?→絶対正義の独裁あったら最高だよね?ニュータイプなんていないって学校で教わっただろ?という会話をしているシーンで、尺自体は多くないです。
ただ情報自体はかなり濃くて、二人の間でハサウェイの正体がばれたことが共有される(関係性の展開の進歩)→ギギの思想のちょっとやばいところ、これは若者特有の理想論ともいえると思いますが、とハサウェイの独裁に対して慎重であるというまともさが描写される(キャラの描写)→ニュータイプはないと教育されることを示す(世界観の説明)が短い尺で行われているわけですよ。すごくないですか? 自分は感動しました。
この後、ハサウェイは街中で出るわけですが、ここでマンハンターと遭遇し、マフティーに対する民衆の愚痴を聞きます。ここで、マンハンターはモビルスーツの恐ろしさの演出に一役買っています。パイロットが威嚇射撃として、対人兵器を使ってるのがだいぶデカいですね。
また、マフティーに対する愚痴は丁寧にも二回されます。さらに、二回目には100年後のことを考える余裕はないと言われてします。これにはハサウェイ君、大ショック。この辺の100年後は考えられるが、明後日への不安は共有できない部分も"若さ"という形で表現されているのだと思います。ここで、テロに対して、クレバーというか否定的だけど消極的に選んでいる手段というのが見れて個人的にはハサウェイ君がすごい好きになりました。
次がダバオ市襲撃。これはまず、曲がすごいなと思いました。多分ESIRNUS という曲だと思うんですが、モビルスーツ戦が始まる前の盛り上げをキック(バスドラム)のピッチの上昇で行ったのはシンプルで効果的、だけど度胸あるなと思いました。すごい。
この部分については、エレベーターに乗り込むシーンで政治家の秘書が「バレないかな」とか言うことで愛人であることがわかるシーンがあるのですが、ここでン秘書の胸に汗が落ちるシーンを入れることで、連邦上層部の腐敗の演出と同時に、このあとのギギとの会話にエロティックな雰囲気を感じさせる演出だと自分は信じています。こういうところの視聴者の感情の誘導がうまいと思う。
直前のギギとケネスが出かけるシーンでは上のダンスクラブに行く(=モビルスーツ襲撃に巻き込まれやすい)のに引き留めなかったあたり、このエレベーターで異性を感じたこととと、直後のモビルスーツの戦闘でギギが普通の女の子のように慌てているところを見ることでハサウェイがギギに傾いている部分があると思うんですよね。
そして、ロボット物として、見せ場の一つである。ダバオ市襲撃。ここはケネスが指揮官としていかに優秀か、テロを止めるためなら街を少しくらい射撃しても厭わない冷酷さ、そして、モビルスーツ戦の恐怖が描かれていてよかったです。特に後者については、似たようなことを08小隊について、キキの村が襲われた際に対人兵器であったり、バーニアで家が解けたりでやっていたと思うのですが、映像の進歩でここまで来るかという凄みを感じました。MSの重みでビルが崩壊するのとかまんま怪獣。
この後のハサウェイの打ち上げまでのシーンは街中のシーンや海、自然が多く映るわけですが、これは暑さは厳しいものの自然の美しさが描かれていてハサウェイの守りたいものが何かが描かれているのかなと感じたりしました。
そして、ハサウェイのクスイー合流のシーンですが、合流するまでは、MSは大本は宇宙開発ロボットであったこと、乗り込むシーンは宇宙では空気がないという理屈を思い出させるような静寂の演出が続き、どこか2001年宇宙の旅を思い出しました。特に、ガンダムシリーズでモビルスーツを使って、こういう作業を緊迫したシーンとして描いていたのは記憶になかったので、印象的でした。
この後はクスイーVSペーネロペー戦なわけですが、クスイーのミサイル音などが、ロボット物の効果音というより、火薬のそれであることが本作でのロボットはヒロイックなものではなく、破壊兵器であるということを如実に語っているようなもので非常によかったですね。
ラストのマフティーのテロ部隊内でのハサウェイの立場がカリスマというより、友達、戦友のそれで非常によかったです。こいつらテロリストなんだよなぁ。この後の展開を考えると非常につらい。
長くなりましたが、マジで劇場で見て良かったです。もう一回見たい。
東京オリンピック開会式が自分は嫌いだ
2021年7/23に開かれた東京オリンピック開会式(以下、開会式)が自分は嫌いだ。
以下に続く文章は結局そういう感情の発露しかでしかない。開会式を楽しんでいた人を不愉快にさせて、あれだけトラブル続きの中、なんとか実施した運営の方々や現場の人々に水を差すことになってしまうと思う。
サブカルが好きで、それが否定された気がして、激情してるのかもしれない。そうにもかかわらず、少なくともツイッターでは好評でやっかんでいるだけかもしれない。でも、自分はあれが嫌いだった。
自分は開会式をみていない。ツイッターのタイムラインでどういう演出がなされたのかを追ったくらいの知識しかないので間違ったこととも書くと思う。それは本当に申し訳ありません。
”参加できないこと"の一貫性のなさ
開会式は本当にゴタゴタの中開始になった、4日ほど前に作曲担当である小山田圭吾さんが辞任になり、前日にディレクターである小林賢太郎さんが解任になった。それはもう大混乱だろう。オリンピック・パラリンピックの音楽監督である、田中知之さんが音楽を差し替えたという報道がなされていたが、本当に大変な仕事だったんだろうと想像される。
2人の外された担当について、前者は"いじめの肯定"で、後者は"ユダヤ人虐殺をネタにしたこと"が問題となっていると認識している。
前者については、自分がラジオが好きなのでラジオの意見の紹介になってしまうが、太田光さんの「あの雑誌が出版されたこと自体、当時出版停止にならなかったこと自体が緩い容認だったんじゃないか。その責任の一端は小さくとも自分たちにもあったんじゃないか」という意見も、
伊集院光さんの「あんなひどい犯罪を容認するという空気は当時にもなかった」
というのも、どちらも分かる気はする。どちらにしても、いじめの肯定をした人物、特に障がいのある同級生に対して過去に問題のある人物はふさわしくないというのは納得できる理屈だと思う。
問題は後者だ。後者は過去のネタが原因で"解任"をさせられている。これを問題とすることは結構だけれど、そうなると複数の疑問が自分には出てきてしまう。例えば、ロンドンオリンピック。
モンティパイソンは好きだし、ネットフリックスにあがっている空飛ぶサーカスに限って言えば全部見たけど、やっぱり自分には違いが分からない。小林賢太郎さんはダメでエリックアイドルはダメなのか? ロンドンオリンピックの閉会式はユーチューブの公式アカウントのアーカイブで見たけど、面白かった。修道女がスカートを捲し上げてユニオンジャックのパンツをはいてるのも、ボリウットをいじるのも、しょうもなくて面白かった。でも、あれは別に宗教を否定も、インドを植民地にしていたことを肯定もしていないと思う。それでいいのではないか? それとも、ここ9年のポリティカルコレクトの意識の向上なんだろうか?
Monty Python's Eric Idle - London 2012 Performance | Music Monday - YouTube
今回の開会式のメンバーとの整合性の取れなさも感じている。
例えば、使用されたというすぎやまこういちさんの楽曲。すぎやまこういちさんは、「LGBTQの人は(ここでは子どもを産めないことを指して)非生産的で、不当な立場にいることへの支援は必要ない。これは差別ではなく、区別だ」という意見に対して、肯定している。ご本人の言葉でなくともはっきりと肯定しているのはやはり問題だろう。
自分は人間性と作品は別ということは十分にあり得ると思うし、実際にスクエアエニックスはそういう声明を出していると報じられている。
Anti-LGBT Dragon Quest Composer Spurs Square Enix Response - GameRevolution
また、開会式に実際に登壇した市川海老蔵さんは5月末に、中国人が白人や日本人に「お前が衛生面に気を付けずに何でも食べて、爆買いをしたからコロナが広がったんだ」となじられ、「金をばらまいたんだから感謝しろ」と返すというシーンを含む歌舞伎を披露したという。
これは地獄を描くシーンとのことで、上記のようなやりとりを肯定しているわけではないのだろう。
でも、なんなのだとしたら小林賢太郎さんの解任はやはり適切ではないのか?と思ってしまう。
「ゲーム音楽は認められた」は本当なのか?
ツイッターを見てると、ゲーム音楽が認められたという意見を目にする。でも、本当にそうなのか? と自分は思ってしまう。主に思ったのは次の3点。
最初に、政治をこの話に絡めるのは筋違いかもしれない。でも、それを許してもらえば、例えば、ゲームセンターは営業時間の短縮を求められて、かつ協力金は出ないと報じられている。
これは恣意的にセンセーショナルな例を出しているだけかもしれない。でも、こういう形で十分に産業として保護されていないのにオリンピックの開会式で使われただけで、認められたといえるのかは自分は疑問だ。今回は家庭用ゲームのゲーム音楽が多く使われていたと理解しているけど、ゲームセンターのゲームもゲームだし、そこで使われている音楽もゲーム音楽だ。そこもリスペクトされて初めて"認められる"ということなんじゃないかと思う。
また、ツイッターで見ているとコンポーザーに前もって報告はされていないことが確認された。別にこれは必要な手順ではないと思う。今回はJASRAC管理委託の楽曲が多かったりしているらしいので、そこを通じて使用許可を取っているのだと思う、多分。時間がなかったという理由もあるんだろう。でも、OPの楽曲が差し替えになって、代わりの曲を作るのに4日で行っている。この期間に連絡することはできなかったんだろうか? 前日の小林賢太郎さんが解任になってから作業に入ったとしても、「事後承諾で申し訳ありませんが、オリンピックの開会式で楽曲を使います。権利関係については適切な処置を行っています」という一報を入れることはできなかったのかと感じる。
最後に、これは憶測の出ない話に立脚しているいわゆる妄言だけど、表現者とそれを使う人の問題も自分は感じてしまう。今回の開会式の演出について、特にピクトグラムの表現について小林賢太郎さんっぽい、彼の演出じゃないかという声があがっている。自分は見ていないし、ラーメンズのいくつかのコントを見たぐらいしかないので、審議の判断はできないけど、これが本当だったら酷いことだと思う。問題があるからとして抜けた人の作ったものを名前は削ったからと言って使うのは不誠実だし、エンタメ全体をバカにしているんじゃないかと感じる。そんな人たちに楽曲が使われたからって認められるってことあるのか? そんな人に認められて意味があるのか? もちろん根拠があるでないので不当な言いがかりかもしれない。
なんにせよ、この2つの点について、自分はあの開会式が嫌いだった。ツイッターで好評なのも、自分が好きなもので構成されていれば、感動できるものがあればそれでいいじゃんという空気を感じて怖かった。これまでの感染の問題も、少なくとも1か月前の段階で世論の過半数が開催に反対していたのに開催されたことも全部忘れられるようで嫌だった。「オタクはちょろいからw」で茶化して終わらせるのは腹立たしかった。
www.asahi.com 自分の主張が正しいのかわからない。別に自分はこういうエンタメとかの分野に明るいわけではないので、どういった風にこれを考えればいいかわからない。だから「いかがでしたか?」と投げかけることしかできないわけだけど、結局まとめると自分はあの開会式とそれを見ている人たちの雰囲気は嫌いだったのだ。
「物語は強い」という物語
先日以下のような記事を目にしました。(といっても1週間ほど前なのですがブログの更新をさぼってたら1ヶ月経っていました。怠惰)
簡単な要約としては以下のようなものでした。(うろ覚え)
・経済学は合理的思考に傾倒しすぎる
・上記の理由もあり、経済学は個人の感情を軽視する
・行動経済学は個人の感情にまで迫ることができる
確かに経済学でこのような合理性を重視しすぎる傾向があることも、行動経済学がノーベル賞の煽りもあって流行っていることも事実だと思います。
ただ、自分が一番面白いなと思ったのは、「経済学にはナラティブな要素が欠けている」という内容でした。
ナラティブ?どういう意味だっけと思ったので、ググってみました。アホ
コトバンクによれば次のような意味だということです。「物語。朗読による物語文学。叙述すること。話術。」
これを見たときに以前必要に迫られて調べたペルソナマーケティングというものを思い出しました。これはザックリと説明すると、抽象的な顧客層を考えるのではなく、特定の個人を想定する。しかも、その個人の履歴書やら趣味、生活スタイルを設定してマーケティングを行うというものです。なんと顔写真まで用意するというから驚きです。(どうでもいいですけど、一次創作のキャラ作るみたいですね)気になった人はSoup Stock Tokyoとかで検索すると詳しいところが知れると思います。
多分、個人の詳細なプロフィールや生活スタイルを想定するという部分に物語との関連を感じたのだと思います。
いや、しかし、なんでこんなに物語が引っ張りだこなんですかね。とか思っていたところ、次のような記事を目にしました。
いろいろ示唆的で面白かったのですが、倉持さんが成功要因を尋ねられたときに答えた返答が印象的でした。以下引用です。
>>「ストーリーを作れたこと」ですかね。
グループアイドルって「秋葉原の小劇場から東京ドームへ!」みたいな物語をファンが応援する感じがあると思うんですけど、グラビアアイドルってそういうのがあんまり伝わらなくて、「なんでこのコが表紙なのかもよくわからない」って感じじゃないですか(笑)。
売れてないグラドルたちがSNSで頑張ったり、応援してもらって100万いいねを達成できたり…そういうストーリーが作れたのがすごく良かったなって思います。<<
ストーリーを作れたことが成功につながった。ストーリーが応援につながった。なんか個人的につながった気がします。つまり、「物語」は共感を得ること、何か漠然としたことを感情レベルで共有することに関して効果があると言えるんじゃないでしょうか?
そう考えるとツイッターでエッセイマンガが広がっていくのってすごい分かる気がします。マンガの体裁を取っているために共感もしやすいし、情報として分かりやすいのではないでしょうか?
マーケティングにおいても、やはり重要になるのは顧客像の共有だと思います。ここがはっきりしないとゴールである商品やサービスの方向性がきまりません。そういった中、ペルソナという形で共有化を図るのが一つの方法として有用なんでしょう。
細分化されて、ある程度の情報を得られる今の状態で「共感」というフレーズは非常に強い力を持っていると思います。これからも物語は強い力を持っていくのではないでしょうか?なんか着地点があやふやですがそんなことを思いました。
リバイバル作品はなぜリバイバルされるんだろう?
皆さん、アニメや映画は見ますでしょうか…?
2018年にアニメでは、CCさくらにおいてクリアカード編と題打って新章が始まりました*1
また、同年Netflixでデビルマンの新作が10話のアニメ作品として作られるということで話題にもなりました。
ことアニメだけに話題を絞っても、銀河英雄伝悦・交響詩篇エウレカセブン・コードギアス・封神演義などの作品がリバイバルとして、再構成されるということで大変話題になった印象があります。
「いやいや、アニメだけの話でしょ。俺(私)はアニメ見ないし」という方もいらっしゃると思いますが、2016の邦画映画を思いだしてください。なにを思いだされましたか?
『君の名は。』ですか?すいません、自分が例に挙げたかったのは『シンゴジラ』です。
あの作品も国内では長らく作品映画化されていなかったゴジラのリバイバルと見ることができるかと思います。*2
さらにアメリカ映画に目を向ければ、2017年だけでも『スターウォーズ続三部作』・『ブレードランナー2049』・『キングコング』・『オリエント急行殺人事件』・etc...などがあります。(思ったよりありますね。びっくりしました…)
上記の現状を踏まえれば、アニメ・映画といった映像作品界隈でリバイバルが盛んと見ることが出来るかと思います。
自分は上記の中に見ていない作品も多くありますし、内容云々に関しては議論することができません。しかし、これの理由について考えてみました。
リバイバル作品がここまで盛んな理由は以下の3点によると考えられるかと思います。
【作品のリアルタイム世代がクリエイター世代となった】
やはり、これは挙げられると思います。
一番最初にメディア化された作品を視聴者として楽しんでいた層が「俺(私)がこの作品を再び作品として世に送りだすんだ!」となるのはモチベーションとして非常に高いのではないでしょうか?自分としての作風や個性も込めようという意欲もそこにあるかもしれません。
【リバイバル企画が通しやすくなった】
2点目はこれです。1点目はクリエイター目線でしたが、こちらはプロデューサー目線ですね。当然ですが、リバイバルされるような作品は当然有名かつ人気のある作品ということになります。
このような作品は既にコンテンツとして大きなものなため、メディアとしての利益も見込みやすいものになります。また、大体において何十周年などの企画としてのコンセプトも構築しやすいものになります。(コードギアス・エウレカ・ゼーガペイン等の作品は10周年ということもあるかと思います。実際ゼーガペインは10周年プロジェクトということが大きく打ちだされていました*3
このような理由からスポンサー側・売り出していく側がやりやすい面が一面にはあると言えるかと思います。
【ユーザーが作品にリーチしやすくなった】
理由の3点目です。ユーザー目線のものですね。これが自分は近年の動きとしてはこれが大きいのではないかと思っています。
ここでのリーチというものは具体的に
・作品を見ることが出来る
・作品を知るor興味を持つことが出来る
・作品をテンプレとして認識することが出来る
ということを指しています。
1点目ですが、DVDなどは言及するまでもなく、過去の作品を見ることは(こと有名な作品は)難なくできます。しかし、これに関しては今までも同じような向きもあると思います。
2点目の「作品を知る」という点です。いままで作品を知るということに関しては、親に話を聞く、または雑誌で知るということが大きかったかと思います。それに対して、現在はSNSやインターネット上のアーカイブからいくらでも作品に触れることが出来ます。特に有名な作品ならその頻度も少なくありません。
さらに、SNSでコンテンツ力のある人は(こと映像作品に限れば)多くの作品を見ている傾向があるといえます。このような人は有名作品を見ている確率も少なくありませんし、なんならその趣味に目覚めるきっかけであることさえ珍しくないと思います。
もっというなら、多くの作品があり、多くの作品があるような現状の中で”その有名作品”はみんな見ていて、皆が褒めているような状況すらあるのです。
あなたがツイッターでフォローしている映画について詳しい人達がいろんな面から作品を褒めているような場面を想像してみてください。あなたがこの作品に興味を持たざるを得ないでしょう。この点で作品の持つコンテンツ直が物を言います。
3点目は有名作品はテンプレとして認識されていることがあるという点です。
ブレードランナーなどは典型例だと思います。サイバーパンクの・近未来・どこか暗くアングラ感がある・ごちゃごちゃしたアジア街というテンプレはブレードランナーによって始まったものです。
作品も飽和気味であり、その結果としてパロネタも少なくない2010年代の現代ではテンプレ、しかもそれを作りだした作品の強烈なまでのパワーはとても大きなものであると考えてもいいのではないでしょうか?
長文をダラダラと書いていましたが、いかがでしょうか?少しでも(そういう一面もあるかもな)と思っていただけたら嬉しいです。
それにしても2020年代にはどんな作品が出てくるんでしょうね?リバイバル作品やリバイバル企画のパロとかあったら面白いとか思っています。
*1:CCさくら:カードキャプターさくら。 1998年4月にアニメ化され、中断期間を挟みつつも、1999年6月までアニメが放送され、幾人もの罪のない少年少女をオタクにした。
*2:調べてみたらゴジラ FINAL WARSが2014年公開ということで、こと国内に限ると12年ぶりらしいですね
*3:ゼーガペイン:2006年に放送されたアニメ作品。放送数話の学園物のような雰囲気とは対照的に粒子コンピュータ―やヴァーチャルリアリティー、ループ構造などを扱ったSF作品であり、DVDの販売数は振いませんでした。このためDVDの売り上げを1ゼーガなどとも言われました。2016年に新作カットを含めた劇場版がゼーガペインADPとして公開されました